こころの診療所 から

宝塚市大橋クリニックの院長ブログです

「よく見ること」について

先日ブログでご紹介した「成熟スイッチ」の影響で、久々に小説を読んでみました。

ohashiclinic.hateblo.jp

短編集でとても面白いのですが、その中に子供に絵画を教える先生の話がありました。子供のありのままの内面を絵に表現させようとするその先生と、商業的に一般受けする絵を評価する展覧会の審査委員との対立を描いたお話でした。

その先生の話を読んでいて、自分が小学生の頃に絵を習っていたことを思い出しました。家から歩いて10分ぐらいの所にある一軒家で2階が教室になっていました。小さい私はただそこに行って、先生から出されたお題をかいていたのか、好きなものを書いていたのかわかりませんが、とにかく何か描いていたのは覚えています。中学生は横でイーゼルにキャンパスを乗せて油絵を描いていました。たぶん中学生になったら油絵になるという流れのようでしたが、結局私はそこまで続けずやめてしまいました。なぜ辞めたのかもよく覚えていません。おそらく姉が止めたから自分もやめたんだと思います。

さて、そこで何を教わったかもほとんど覚えていないのですが、とにかく紙に大きく描きなさいと言われたのだけ覚えています。ところが、いつか母から聞いたことですが、一度母が教室に見学に来た時に、先生が、描くものを「よく見てごらん」と声をかけていたのが印象的だったとのこと。母が教室に来たことがあったのかということも私はすっかり忘れていました。

私は人をかいても、鼻水や涙をいたずらでよく描いていて、先生にまた描いたのかーと穏やかに笑いながらしょっちゅう言われていたのは記憶しています。実家にまだその時の絵がありますが、よく見るとその跡があって、懐かしく思い出すものです。

そう、それで今回のテーマの「よく見ること」というお話です。

医学部では組織学という授業があって、腎臓の構造やら、脳の構造やらいろいろなものを顕微鏡で見ながらスケッチするという授業があります。大変面倒くさいです。写真もスキャナもある時代になぜこんなことをするんだろうという気持ちになります。

ところが、面白いことに、スケッチをしているとやはり対象物を「よく見る」のですね。写真だとパッと見て、こういう構造だなと一見理解したように思ってしまうのですが、スケッチをしながらよく見ると、ここにこんなものがあったのか、とか、ここは実はよく見えないなとかいう具合に写真では見えたと思っていたものが見えてくるのです。つまり、よく見ないと、見えているようで見えていないのです。

実は、自分の気持ちも同じです。日常がうまくいっているときは、写真のように、映画のように日常が流れていって、自分の気持ちは感じているような感じていないような。波打ち際でさざ波や大きめの波が寄せてくる様に、引っ掛かることもなく気持ちの抑揚が流れていっているのだと思います。

ところが海に入ってみると、魚がいたり、貝があったり、ガラスの破片があったり、海藻が浮いていたり、波だけ見ていてはわからないことがたくさんあります。

気持ちを見つめることは面倒だし、抵抗もあると思います。でも、よく見ないとわからないこともあります。ガラスの破片が貝殻だったり、気持ち悪いごみだと思っていたら海藻だったり。この波がどんな気持ちなのか、不安なのか、悲しいのか、怒りなのか、喜びなのか。なぜ不安になるのか?悲しくなるのか?イライラするのか?繰り返し感じる感情なのか?いつからそんなパターンがあるのか?などなど、日常がうまくいかない時には、よく見てみるだけでも、何かが見えてくるかもしれません。

そこから、その気持ちが自然なものなのか、行き過ぎてしまっているのか、少し考えて自分に声をかけていけるようになると、つらい時の役にたつのではないかと思っています。

かつて絵の先生が私に「よく見てごらん」と言ってくれていたように、つらい時に気持ちをよく見るサポートをするのが、我々医療者の役割の一つと思います。我々も日々精進です。